レリーソールから、アロテナへ。
レリーソールの販売を始めたのが2008年10月。
徐々にですが伝わり始めた2009年初頭。
黒体を使った新商品は出来ないものか・・?

酒井 弥(みつる)著 技報堂出版 2001年2月19日1版1刷発行
「黒体入り石鹸」の頁を見つけました。
黒体粉末入り石鹸の効能も皮膚の老廃物の吸着分解と考えられる。
この場合は、セラミック系黒体粉末を用いる。化粧石鹸に対して約
1%の黒体粉末と少量の水を鍋に入れ、弱火で加熱する。水が沸騰
するとともに石鹸が溶け出すので、全体をゆっくりかき混ぜると黒
色の粘り気のあるものになる。均一に混ざり合ったら、熱いうちに
ケーキ用の金型などに入れ、そのまま放冷すると、黒体入り石鹸が
できる。黒体粉末が皮膚の油分や汚れを吸着分解し、通常の石鹸以
上に洗浄効果がある。
この文章がきっかけでした。
黒体石けんを作ってみよう。
そう思ってしまったんです。
あれから3年が経ちました。
当時は悠香のお茶のしずくがすごい勢いでした。
知り合いの人もたくさん使っていらっしゃいました。
「あきらめないで!」って、毎日のように流れいていました。
男性用の加齢臭対策せっけんもチラシや新聞広告をよく見かけました。
黒体石けんを開発はしていましたが、決まっていなかったのです。
女性用?男性用?どっちにしよう・・?
そこからスタートです。
ターゲットは誰なのか?
誰に喜んでいただきたいのか?
誰を幸せにしたいのか?
また、どこで作ってもらおうか?
パッケージは?
デザインは?
商品の名前は?
値段は?
成分は?
販売するためのホームページは?
作ると決めたのは良かったのですが、
やることがこれほど多いとは・・。
レリーソールの時とは訳が違います。
たかが100gの石けん。
されど石けん。
2月ごろ企画が始まり、発売は10月の終わり。
8ヶ月もかかってしまいました。
順番にお話ししていこうと思います。
どうやってアロテナが生まれたのか?
壮大なストーリー。
日本一の愛妻家が、思い余って妻のため
スキンケアブランドを作ってしまったストーリーです。
真っ黒な石けんが生まれるまでの感動(?)のストーリー。
乞うご期待!
徐々にですが伝わり始めた2009年初頭。
黒体を使った新商品は出来ないものか・・?

酒井 弥(みつる)著 技報堂出版 2001年2月19日1版1刷発行
「黒体入り石鹸」の頁を見つけました。
黒体粉末入り石鹸の効能も皮膚の老廃物の吸着分解と考えられる。
この場合は、セラミック系黒体粉末を用いる。化粧石鹸に対して約
1%の黒体粉末と少量の水を鍋に入れ、弱火で加熱する。水が沸騰
するとともに石鹸が溶け出すので、全体をゆっくりかき混ぜると黒
色の粘り気のあるものになる。均一に混ざり合ったら、熱いうちに
ケーキ用の金型などに入れ、そのまま放冷すると、黒体入り石鹸が
できる。黒体粉末が皮膚の油分や汚れを吸着分解し、通常の石鹸以
上に洗浄効果がある。
この文章がきっかけでした。
黒体石けんを作ってみよう。
そう思ってしまったんです。
あれから3年が経ちました。
当時は悠香のお茶のしずくがすごい勢いでした。
知り合いの人もたくさん使っていらっしゃいました。
「あきらめないで!」って、毎日のように流れいていました。
男性用の加齢臭対策せっけんもチラシや新聞広告をよく見かけました。
黒体石けんを開発はしていましたが、決まっていなかったのです。
女性用?男性用?どっちにしよう・・?
そこからスタートです。
ターゲットは誰なのか?
誰に喜んでいただきたいのか?
誰を幸せにしたいのか?
また、どこで作ってもらおうか?
パッケージは?
デザインは?
商品の名前は?
値段は?
成分は?
販売するためのホームページは?
作ると決めたのは良かったのですが、
やることがこれほど多いとは・・。
レリーソールの時とは訳が違います。
たかが100gの石けん。
されど石けん。
2月ごろ企画が始まり、発売は10月の終わり。
8ヶ月もかかってしまいました。
順番にお話ししていこうと思います。
どうやってアロテナが生まれたのか?
壮大なストーリー。
日本一の愛妻家が、思い余って妻のため
スキンケアブランドを作ってしまったストーリーです。
真っ黒な石けんが生まれるまでの感動(?)のストーリー。
乞うご期待!
「売りたい」から「伝えたい」へ。
ものづくりをやめ、もの売りへ少しずつシフトして行きました。
縫製事業を残しつつインターネット通販。
お客様から毎日のように届く感謝の言葉。
僕の毎日には「ありがとう」と言う言葉があふれるようになって来ました。
今日もお客様から頂いたメールを紹介します。
レリーソールですが、最高です§^。^§
現在彼がレストランでの仕事場を中心に使用しています。
まず足の疲れが出ないと言っていました。
それと足の臭いがおさえられてるそうです。
今まで接客中、お客様が足の臭いで嫌な思いをしているのでは...(-_-;)
と仕事に集中出来なかった状態が、初日レリーソールを使用して帰ってくると「これイイ!これイイ!」を連発していました。
どうしてもレストランだと長時間の立ち仕事で靴の中も汗をかき出します。気を取られて集中出来なかった状態から今ではお客様に対し笑顔を自然に出せているそうです。
本当に良かったです。
ありがとうございましたm(_ _)m
今後とも私の彼の様に笑顔を増やしていって下さい。
ありがとうございました。
と、いった内容のメールが送られてくるようになりました。
モチベーションが下がることがなくなりました。
ありがとう。と言う言葉は何よりのご褒美である。
そう感じる毎日になりました。
白状します。
最初はそうじゃなかったんです。
ただ、いいもの作って販売して儲けたかったんです。
でも、それがだんだんと変わってきたんです。
ただ、売りたい・・。
が、
もっと伝えたい・・。
もっとお客様の喜びの声を聞きたい。
そんなふうに変わって行きました。
足の臭いを解決できただけでお客様はこんなに喜んでくれる。
もっと喜ばせることができないだろうか?
僕は、商売の基本を身をもって体得できたのです。
教えてくれたのはお客様です。
お客様の喜びの声だったんです。
その頃からです。
僕は思います。
今の日本って、日本人って・・それを忘れてしまったんじゃないか?
って思うようになりました。
みんながそうじゃないです。
忘れてしまった人が増えすぎた・・。
だから、暮らしにくいんじゃないかって・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ものづくり(縫製業)だけをしていた頃、
僕は「ありがとう」って言ってもらったことがありませんでした。
毎月10000枚とか布団カバーを作るんですよ!
指示書どおり製品に仕上げるのは当たり前。
納期通り納めるのは当たり前。
「ご苦労さん!」の一言があれば、まだ救われます。
それもない・・。
みんながみんなそうじゃないのはわかっています。
僕も悪かったかもしれない。
せめて「やる気」損なうような言動はしてほしくなかった。
「ありがとう」の対義語?
それは、「当たり前」なんですって。
当たり前なことに感謝などあったもんじゃないんです。
当たり前なことに感謝してもらってこそまた明日もがんばろうって気になるんですよね。
ものづくりの現場ではそんな事も忘れられてしまうんです。
もう、愚痴はやめますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は人を喜ばす方法を知ることができました。
人を喜ばす方法を知りことが出来れば、
自分が幸せなんだと気づくこともできるんです。
伝えたい・・。
レリーソールからアロテナへ・・。
縫製事業を残しつつインターネット通販。
お客様から毎日のように届く感謝の言葉。
僕の毎日には「ありがとう」と言う言葉があふれるようになって来ました。
今日もお客様から頂いたメールを紹介します。
レリーソールですが、最高です§^。^§
現在彼がレストランでの仕事場を中心に使用しています。
まず足の疲れが出ないと言っていました。
それと足の臭いがおさえられてるそうです。
今まで接客中、お客様が足の臭いで嫌な思いをしているのでは...(-_-;)
と仕事に集中出来なかった状態が、初日レリーソールを使用して帰ってくると「これイイ!これイイ!」を連発していました。
どうしてもレストランだと長時間の立ち仕事で靴の中も汗をかき出します。気を取られて集中出来なかった状態から今ではお客様に対し笑顔を自然に出せているそうです。
本当に良かったです。
ありがとうございましたm(_ _)m
今後とも私の彼の様に笑顔を増やしていって下さい。
ありがとうございました。
と、いった内容のメールが送られてくるようになりました。
モチベーションが下がることがなくなりました。
ありがとう。と言う言葉は何よりのご褒美である。
そう感じる毎日になりました。
白状します。
最初はそうじゃなかったんです。
ただ、いいもの作って販売して儲けたかったんです。
でも、それがだんだんと変わってきたんです。
ただ、売りたい・・。
が、
もっと伝えたい・・。
もっとお客様の喜びの声を聞きたい。
そんなふうに変わって行きました。
足の臭いを解決できただけでお客様はこんなに喜んでくれる。
もっと喜ばせることができないだろうか?
僕は、商売の基本を身をもって体得できたのです。
教えてくれたのはお客様です。
お客様の喜びの声だったんです。
その頃からです。
僕は思います。
今の日本って、日本人って・・それを忘れてしまったんじゃないか?
って思うようになりました。
みんながそうじゃないです。
忘れてしまった人が増えすぎた・・。
だから、暮らしにくいんじゃないかって・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ものづくり(縫製業)だけをしていた頃、
僕は「ありがとう」って言ってもらったことがありませんでした。
毎月10000枚とか布団カバーを作るんですよ!
指示書どおり製品に仕上げるのは当たり前。
納期通り納めるのは当たり前。
「ご苦労さん!」の一言があれば、まだ救われます。
それもない・・。
みんながみんなそうじゃないのはわかっています。
僕も悪かったかもしれない。
せめて「やる気」損なうような言動はしてほしくなかった。
「ありがとう」の対義語?
それは、「当たり前」なんですって。
当たり前なことに感謝などあったもんじゃないんです。
当たり前なことに感謝してもらってこそまた明日もがんばろうって気になるんですよね。
ものづくりの現場ではそんな事も忘れられてしまうんです。
もう、愚痴はやめますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は人を喜ばす方法を知ることができました。
人を喜ばす方法を知りことが出来れば、
自分が幸せなんだと気づくこともできるんです。
伝えたい・・。
レリーソールからアロテナへ・・。
製造業とは・・。
僕が16年間一生懸命やってきた製造業。
手間を提供し対価を得ることです。
布団カバーを作るには、
生地を巾1.5m、丈2mに裁断します。
2枚の布にファスナーを付けます。
ロックミシンで周りを縫います。
ひっくり返して出来上がり。
キレイにたたんでビニール袋に入れて出来上がり!
1枚、300円前後の仕事です。
ぶっちゃけそんなもんです。
この作業を朝から晩まで果てしなく繰り返します。
文句を言ってるのではないです。
現実を書いてるだけですから・・。
生地の質や柄が変わってもやることはほぼいっしょです。
北欧デザインも、高級麻素材も、ディズニーも・・、
ぜーんぶやることは同じ。
同じ人がファスナーを付けて、
同じ人がロックミシンで周りを縫う。
働いている人はみんないい人ばかりです。
それぞれの家族のために頑張って働いてくれていました。
製品の行き先は、
量販店、通販カタログ、インテリアショップ、寝装品の問屋さんなどです。
多い月には20000枚ぐらい生産します。
各お店ではそれぞれの購入層に合わせたデザインや素材を、
それぞれのバイヤーが僕達のような工場に発注するわけです。
その年の流行りの柄や色、素材を提案し、
それを元にデザイナーがデザインする。
売れそうなものを、売れそうな数を予想し発注します。
売れそうな値段も彼らが決めます。
誰かの頭の中で考えられたコトをそのまま形にするのが、
僕達、製造業者の仕事です。
売れそうな値段に納めるには・・。
限られたコストの中でいかに利益を残しながら・・。
とどの詰まり・・工賃の圧縮です。
一昔前は違ったんです。
人件費は幾ら。材料費は幾ら。利益は幾ら。
それが認められた時代はちゃんと守られていたんです。
積み上げたコストが彼らの製造コストです。
いつからか、「売れそうな値段」が先に来て、
製造コストはここまで!みたいなことになってしまった・・。
日本中の製造業者はこのスパイラルの中でもがき苦しんできたし、
今も苦しみ続けています。
どうすればここから抜け出せるのだろう!?
もっと極端な言い方をします。
自分の価値が正当に評価されてないんですよ。
30万給料もらってた人が、
ある日「今日から20万ね!」って言われたら困りませんか?
工賃が300円から200円に下がるってそういうことなんです。
日本のものづくりの現場では現実それがあったんです。
働けど働けど我が暮らし楽にならず。
ものを作ってるだけじゃダメ。
価値を生み出し届けなきゃ・・。
くどいようですが、このブログは
3年前の僕と同じように、
「ものづくり」という言葉に取り憑かれて、
動けない人たちへのメッセージです。
動こうとしない人たちへのメッセージなのです。
心地よい響きですよね、ものづくり。
この言葉さえ言っていれば「なんとかなりそうな言葉」です。
そう言っていればなにか救われる感じがするんです。
動かない(動けない)自分への言い訳です。
家族を路頭に惑わすことになるかも知れないのに・・。
一歩です。
何か自分を変えるために一歩。
まずはその一歩踏み出してみませんか。
手間を提供し対価を得ることです。
布団カバーを作るには、
生地を巾1.5m、丈2mに裁断します。
2枚の布にファスナーを付けます。
ロックミシンで周りを縫います。
ひっくり返して出来上がり。
キレイにたたんでビニール袋に入れて出来上がり!
1枚、300円前後の仕事です。
ぶっちゃけそんなもんです。
この作業を朝から晩まで果てしなく繰り返します。
文句を言ってるのではないです。
現実を書いてるだけですから・・。
生地の質や柄が変わってもやることはほぼいっしょです。
北欧デザインも、高級麻素材も、ディズニーも・・、
ぜーんぶやることは同じ。
同じ人がファスナーを付けて、
同じ人がロックミシンで周りを縫う。
働いている人はみんないい人ばかりです。
それぞれの家族のために頑張って働いてくれていました。
製品の行き先は、
量販店、通販カタログ、インテリアショップ、寝装品の問屋さんなどです。
多い月には20000枚ぐらい生産します。
各お店ではそれぞれの購入層に合わせたデザインや素材を、
それぞれのバイヤーが僕達のような工場に発注するわけです。
その年の流行りの柄や色、素材を提案し、
それを元にデザイナーがデザインする。
売れそうなものを、売れそうな数を予想し発注します。
売れそうな値段も彼らが決めます。
誰かの頭の中で考えられたコトをそのまま形にするのが、
僕達、製造業者の仕事です。
売れそうな値段に納めるには・・。
限られたコストの中でいかに利益を残しながら・・。
とどの詰まり・・工賃の圧縮です。
一昔前は違ったんです。
人件費は幾ら。材料費は幾ら。利益は幾ら。
それが認められた時代はちゃんと守られていたんです。
積み上げたコストが彼らの製造コストです。
いつからか、「売れそうな値段」が先に来て、
製造コストはここまで!みたいなことになってしまった・・。
日本中の製造業者はこのスパイラルの中でもがき苦しんできたし、
今も苦しみ続けています。
どうすればここから抜け出せるのだろう!?
もっと極端な言い方をします。
自分の価値が正当に評価されてないんですよ。
30万給料もらってた人が、
ある日「今日から20万ね!」って言われたら困りませんか?
工賃が300円から200円に下がるってそういうことなんです。
日本のものづくりの現場では現実それがあったんです。
働けど働けど我が暮らし楽にならず。
ものを作ってるだけじゃダメ。
価値を生み出し届けなきゃ・・。
くどいようですが、このブログは
3年前の僕と同じように、
「ものづくり」という言葉に取り憑かれて、
動けない人たちへのメッセージです。
動こうとしない人たちへのメッセージなのです。
心地よい響きですよね、ものづくり。
この言葉さえ言っていれば「なんとかなりそうな言葉」です。
そう言っていればなにか救われる感じがするんです。
動かない(動けない)自分への言い訳です。
家族を路頭に惑わすことになるかも知れないのに・・。
一歩です。
何か自分を変えるために一歩。
まずはその一歩踏み出してみませんか。
思いの発信
今日は朝早く起きて倫理法人会に出席しました。
昨年の12月から倫理法人会で幸せな生き方について勉強しています。
経営者の前に一人の人間。
倫理法人会では人間として幸せに生きるには?を勉強しています。
進むべき道とは何なのか?
どう生きるべきなのか?
そんな事を考えれば考えるほど深みにはまっていきます。
人は誰でも道しるべを探します。
見つけてしまえばまっすぐに進めばいいのですが、
人は悩み苦しみます。
でもまたそこまで戻ればいいんです。
道しるべがあるところまで・・。
そこにはちゃんと書いてあるのです。
この前通ったときには見逃していたのかもしれません。
気づけば戻り繰り返せばいいのです。
また、そこから一歩ずつ歩けばいい・・。
そう思います。
僕はものづくりを続けてきました。
そして、ものづくりを辞めてしまった。
もがき苦しみながら進んだ道をもう選ぶことはないでしょう。
どのようにして進むべき道を、道しるべを見つけたか?
もがく苦しんだから見つかった。
だから間違った道も無駄ではなかった。
長い長いトンネルを明かりを持たずに進んだ毎日とはお別れです。
今日はそんな僕の体験談を倫理法人会主催の
経営者モーニングセミナーで話してきました。
出席者は38名。
今までも何度か人まで話したことはあったのですが、
今までで一番多い人数でした。
かなり緊張しました。
あがり症なので何回もリハーサルしていましたが、
やっぱりできは50点ぐらいでした。
話の内容は、「思いの発信」
思い、行動し、出逢い、変わった。
そんな話です。
縫製屋を継いだ2代目社長が妻のためにスキンケアを作っちゃった的な話です。
意外と受けました。
「感動しました。今度ゆっくりお話聞かせて下さい。」
「ご苦労されたんですね。奥様の支え忘れないで下さいね。」
講話のあと、ホテルのビュッフェで朝食会。
名刺をたくさんもらいました。
あの日あの時あの苦労から始まった。
サクセスストーリーというにはまだまだです。
愛妻家が作ったスキンケアブランドアロテナ誕生物語。
このブログで熱く語っていきたいと思います。
昨年の12月から倫理法人会で幸せな生き方について勉強しています。
経営者の前に一人の人間。
倫理法人会では人間として幸せに生きるには?を勉強しています。
進むべき道とは何なのか?
どう生きるべきなのか?
そんな事を考えれば考えるほど深みにはまっていきます。
人は誰でも道しるべを探します。
見つけてしまえばまっすぐに進めばいいのですが、
人は悩み苦しみます。
でもまたそこまで戻ればいいんです。
道しるべがあるところまで・・。
そこにはちゃんと書いてあるのです。
この前通ったときには見逃していたのかもしれません。
気づけば戻り繰り返せばいいのです。
また、そこから一歩ずつ歩けばいい・・。
そう思います。
僕はものづくりを続けてきました。
そして、ものづくりを辞めてしまった。
もがき苦しみながら進んだ道をもう選ぶことはないでしょう。
どのようにして進むべき道を、道しるべを見つけたか?
もがく苦しんだから見つかった。
だから間違った道も無駄ではなかった。
長い長いトンネルを明かりを持たずに進んだ毎日とはお別れです。
今日はそんな僕の体験談を倫理法人会主催の
経営者モーニングセミナーで話してきました。
出席者は38名。
今までも何度か人まで話したことはあったのですが、
今までで一番多い人数でした。
かなり緊張しました。
あがり症なので何回もリハーサルしていましたが、
やっぱりできは50点ぐらいでした。
話の内容は、「思いの発信」
思い、行動し、出逢い、変わった。
そんな話です。
縫製屋を継いだ2代目社長が妻のためにスキンケアを作っちゃった的な話です。
意外と受けました。
「感動しました。今度ゆっくりお話聞かせて下さい。」
「ご苦労されたんですね。奥様の支え忘れないで下さいね。」
講話のあと、ホテルのビュッフェで朝食会。
名刺をたくさんもらいました。
あの日あの時あの苦労から始まった。
サクセスストーリーというにはまだまだです。
愛妻家が作ったスキンケアブランドアロテナ誕生物語。
このブログで熱く語っていきたいと思います。
ものづくりしていると家族のお葬式も悲しめない。
2006年から続く不幸。
2006年には祖母、実の父が相次いで亡くなり、
2007年は、下請けの夜逃げです。
2007年は、義理の母がうつがひどくなりました。
この「うつ」という病気、本人も辛いのですが、
家族も大変です。
食事の世話、病院の送り迎え、時には息抜きにお出かけしたり、
仕事もうまく行っているわけでもなくホント大変でした。
妻はヘトヘトに疲れていました。
平日の昼間は専務として、夜は母として、主婦として、
仕事が休みの日は娘として・・。
ホント頑張ってくれました。
そんな2008年5月、今度は義父が倒れてしまいます。
間質性肺炎という病気です。
うつのお義母さんの看病をしながらの病院通い・・。
治療もなかなかままなりません。
9月。
劇症化してしまいあっという間に逝ってしまいました。
享年73歳。
さすがにこの時は呪いました。
お父ちゃん子だった妻も泣いて、泣いて・・。
あんなに仲良くしていたのに・・。
もう少し生きて欲しかった。
もっと親孝行したかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わずか3年で家族を3人亡くしました。
当然3回お葬式をあげました。
大切な家族のお葬式。
この儀式もまともにできていない事に気がついたんです。
葬式の間も仕事は待ってくれない。
売り手の都合で、カタログに載っているから欠品は許されないのです。
お葬式を理由で納入日を変更することができない。
僕は、僕が作ったお布団カバーを使ってくれるお客さんの名前も顔も知らない。
もし、僕の友達の家族がお葬式のために仕事をしていたら、
お葬式の日ぐらい仕事を休んでご家族を弔ってやりなさいよ。って言うはず。
そう言うはずです。
喪に服し、故人の思い出を順番に思い出し涙したいはずです。
それができない・・。
納品作業をするために仕事場に行かないと・・。
こんな馬鹿げたことはない!
僕は相当バカなのでそれでいいと思っていたんです。
でも、祖母、父、義父と回を重ねる度に・・。
ん?なんかおかしいくないか?
おかしいだろう?
絶対におかしい!!
に、なっていったのです。
3年がかりでそのことに気付きました。
いろんな意味でもう、(製造業という)ものづくりなんてしたくない!!
そう心に誓うのでした。
2006年には祖母、実の父が相次いで亡くなり、
2007年は、下請けの夜逃げです。
2007年は、義理の母がうつがひどくなりました。
この「うつ」という病気、本人も辛いのですが、
家族も大変です。
食事の世話、病院の送り迎え、時には息抜きにお出かけしたり、
仕事もうまく行っているわけでもなくホント大変でした。
妻はヘトヘトに疲れていました。
平日の昼間は専務として、夜は母として、主婦として、
仕事が休みの日は娘として・・。
ホント頑張ってくれました。
そんな2008年5月、今度は義父が倒れてしまいます。
間質性肺炎という病気です。
うつのお義母さんの看病をしながらの病院通い・・。
治療もなかなかままなりません。
9月。
劇症化してしまいあっという間に逝ってしまいました。
享年73歳。
さすがにこの時は呪いました。
お父ちゃん子だった妻も泣いて、泣いて・・。
あんなに仲良くしていたのに・・。
もう少し生きて欲しかった。
もっと親孝行したかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わずか3年で家族を3人亡くしました。
当然3回お葬式をあげました。
大切な家族のお葬式。
この儀式もまともにできていない事に気がついたんです。
葬式の間も仕事は待ってくれない。
売り手の都合で、カタログに載っているから欠品は許されないのです。
お葬式を理由で納入日を変更することができない。
僕は、僕が作ったお布団カバーを使ってくれるお客さんの名前も顔も知らない。
もし、僕の友達の家族がお葬式のために仕事をしていたら、
お葬式の日ぐらい仕事を休んでご家族を弔ってやりなさいよ。って言うはず。
そう言うはずです。
喪に服し、故人の思い出を順番に思い出し涙したいはずです。
それができない・・。
納品作業をするために仕事場に行かないと・・。
こんな馬鹿げたことはない!
僕は相当バカなのでそれでいいと思っていたんです。
でも、祖母、父、義父と回を重ねる度に・・。
ん?なんかおかしいくないか?
おかしいだろう?
絶対におかしい!!
に、なっていったのです。
3年がかりでそのことに気付きました。
いろんな意味でもう、(製造業という)ものづくりなんてしたくない!!
そう心に誓うのでした。
ものづくりって・・。
ものづくりって・・。
もの、商品を作ること。
製造加工業とは、手間賃をいただく事。
一枚幾らで受注し、経費を差っ引いた残りが収入です。
【売上】は僕達の努力ではどうにもなりません。
だから僕達は効率を考えます。
誰かが売れそうなものを考え、それをいろんな方法で売ってきます。
売れそうな数だけ僕達は受注します。
利益を残すには経費率を下げること。
つまり効率を上げることを考えます。
材料費を仕入れ業者にお願いし、安くしてもらうこと。
運賃もそう、梱包資材もそうしてきました。
モノが売れている時代はこれでよかったのですが、
前が売れてないから・・。
ただそれだけの理由で加工賃を下げられる。
経費で一番大きい部分といえば、人件費です。
人件費って下げられないですよね。
よーく考えると、加工賃て人件費なんですよね。
ものづくりの現場では、
何もかも、材料+人件費がものの値段なんです。
商品の値段を下げないと売れないから人件費を削れ!ということになるんです。
すると、どうなるんでしょか?
こういう計算式になることがだんだんと分かって来ました。
僕の収入=売上(他人のアイデア)
ー(経費(他社様の従業員のお給料が含まれる))
ー(自社の従業員のお給料)
なんとさびしいことでしょう。
僕の収入は他人がたくさん売れるものを考えてくれるか、
他人のお給料が下がらないと上がらないんです。
僕がやってきたビジネスモデルでは、
僕(たち家族)の収入は、他人の努力もしくは他人の痛みによって左右されるのです。
言い換えると自分の収入を自分で決められない。
ここに気づいてしまったのです。
自分で自分の収入を決められる方法ってなんでしょう?
いろいろあります。
僕の人生で身につけてきたことを活かしながらその方法を見つけないといけません。
それは、ものづくりを辞めることだったのです。
製造業という名の「ものづくり」からの脱却し、
ものづくりを創造業というジャンルに押し上げるべきだと・・。
「かちづくり」
自分が作った商品やサービスに価値を持たせ、お客様に直接届ける。
単純なことですがものづくりの現場に長いことい続けるとこのことに気付けないんです。
この方法がわかれば僕は、僕の会社は変わるかもしれない。
2008年、そう決意し、僕はインターネットの通販事業を始めます。
もの、商品を作ること。
製造加工業とは、手間賃をいただく事。
一枚幾らで受注し、経費を差っ引いた残りが収入です。
【売上】は僕達の努力ではどうにもなりません。
だから僕達は効率を考えます。
誰かが売れそうなものを考え、それをいろんな方法で売ってきます。
売れそうな数だけ僕達は受注します。
利益を残すには経費率を下げること。
つまり効率を上げることを考えます。
材料費を仕入れ業者にお願いし、安くしてもらうこと。
運賃もそう、梱包資材もそうしてきました。
モノが売れている時代はこれでよかったのですが、
前が売れてないから・・。
ただそれだけの理由で加工賃を下げられる。
経費で一番大きい部分といえば、人件費です。
人件費って下げられないですよね。
よーく考えると、加工賃て人件費なんですよね。
ものづくりの現場では、
何もかも、材料+人件費がものの値段なんです。
商品の値段を下げないと売れないから人件費を削れ!ということになるんです。
すると、どうなるんでしょか?
こういう計算式になることがだんだんと分かって来ました。
僕の収入=売上(他人のアイデア)
ー(経費(他社様の従業員のお給料が含まれる))
ー(自社の従業員のお給料)
なんとさびしいことでしょう。
僕の収入は他人がたくさん売れるものを考えてくれるか、
他人のお給料が下がらないと上がらないんです。
僕がやってきたビジネスモデルでは、
僕(たち家族)の収入は、他人の努力もしくは他人の痛みによって左右されるのです。
言い換えると自分の収入を自分で決められない。
ここに気づいてしまったのです。
自分で自分の収入を決められる方法ってなんでしょう?
いろいろあります。
僕の人生で身につけてきたことを活かしながらその方法を見つけないといけません。
それは、ものづくりを辞めることだったのです。
製造業という名の「ものづくり」からの脱却し、
ものづくりを創造業というジャンルに押し上げるべきだと・・。
「かちづくり」
自分が作った商品やサービスに価値を持たせ、お客様に直接届ける。
単純なことですがものづくりの現場に長いことい続けるとこのことに気付けないんです。
この方法がわかれば僕は、僕の会社は変わるかもしれない。
2008年、そう決意し、僕はインターネットの通販事業を始めます。
僕の人生これでいいのだろうか?
父親はいろんな意味で自分にとって最高のタイミングで死ぬものだ。
今から思うと、ホントそうだったのかもしれない。
僕に何かを伝えるために親父は死んだんじゃないか・・。
この頃から僕は何か疑問を感じるようになりました。
何かおかしい。
何がおかしい?
ものづくりしてていいんだろうか?
食ってくにはこれしかできないじゃん!!
否、他にも道があるんじゃないのか?
ぐるぐるとこんな言葉が僕の頭の中をもたげるようになって行きました。
それでも、日々の仕事でこんな言葉を紛らわせながら懸命に働きました。
父の死から1年後・・。
一周忌を済ませ、息子の運動会の日。
下請けキルト工場にちょっと用事があり電話をかけました。
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により
現在ご使用できなくなっています・・。」
そんな馬鹿な、いつもかけてる携帯の番号、使われてないって・・。
もう一度・・
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により・・・」
おかしいな・・。
まさかっ!
工場の電話にかけてみた。
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により・・・」
どうしたんだ?
運動会を抜け出しこの工場へ向かった。
この会社はこの年の春から下請け工場としてパートナーを組んでいる会社です。
ある製品を作るためにパートナーシップを組んだばかりです。
いっしょにこの難局を抜けだそうと誓った会社。
僕はこの仕事のために、借入もすましたばかりだったのです。
工場につきました。
誰もいません。
隣にある自宅は、もぬけの殻・・。
夜逃げです。
それ以来彼とは連絡をとっていません。
残ったのは大量の受注と工場、そして、借金。
えらいことになってしまった。
2007年9月23日の出来事です。
この出来事をきっかけに僕の思い『おかしい』は本物になりました。
絶対におかしい。になりました。
今から思うと、ホントそうだったのかもしれない。
僕に何かを伝えるために親父は死んだんじゃないか・・。
この頃から僕は何か疑問を感じるようになりました。
何かおかしい。
何がおかしい?
ものづくりしてていいんだろうか?
食ってくにはこれしかできないじゃん!!
否、他にも道があるんじゃないのか?
ぐるぐるとこんな言葉が僕の頭の中をもたげるようになって行きました。
それでも、日々の仕事でこんな言葉を紛らわせながら懸命に働きました。
父の死から1年後・・。
一周忌を済ませ、息子の運動会の日。
下請けキルト工場にちょっと用事があり電話をかけました。
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により
現在ご使用できなくなっています・・。」
そんな馬鹿な、いつもかけてる携帯の番号、使われてないって・・。
もう一度・・
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により・・・」
おかしいな・・。
まさかっ!
工場の電話にかけてみた。
「お客様のおかけになった電話番号はお客様の都合により・・・」
どうしたんだ?
運動会を抜け出しこの工場へ向かった。
この会社はこの年の春から下請け工場としてパートナーを組んでいる会社です。
ある製品を作るためにパートナーシップを組んだばかりです。
いっしょにこの難局を抜けだそうと誓った会社。
僕はこの仕事のために、借入もすましたばかりだったのです。
工場につきました。
誰もいません。
隣にある自宅は、もぬけの殻・・。
夜逃げです。
それ以来彼とは連絡をとっていません。
残ったのは大量の受注と工場、そして、借金。
えらいことになってしまった。
2007年9月23日の出来事です。
この出来事をきっかけに僕の思い『おかしい』は本物になりました。
絶対におかしい。になりました。
父の死
父の死は突然でした。
2006年9月。
くも膜下出血です。
倒れて、1週間目の朝、逝ってしまいました。
救えた命です。
脳の中の血管に瘤は見つかっていたんです。
そして、この瘤の除去手術をあの世界的名医 福島孝徳先生に執刀してもらうことも決まっていたのです。
なのになぜ?
その年は、88歳のおばあちゃんが先に具合が悪くなって入院したんです。
そして、父と母は決めたそうです。
ばあさんが元気になって退院してきたら手術を受けよう・・。
いい先生に手術してもらえるそうだから・・。って。
6月に入り、おばあちゃんの様態が急変します。
主治医から「家族に集まってもらって下さい。」
えーーっ!
みんなに看取られながら大往生で逝ってしまいました。
元気になって帰ってきたら、のはずが・・。
帰ってきてはくれたのですが・・。
それから、お葬式、法事と続きます。
田舎なので丁寧です。
初七日、ふた7・・49日法要。
父の手術はどうするの?
家族で話し合って、
100ケ日法要が済んでおばあちゃんがお墓に入ったら・・。
って事になりました。
予定通りであれば、9月の末です。
でも、
間に合わなかったのです。
瘤が、血管の中でそれより先に弾けてしまったのです。
時限爆弾を脳の中に埋めたままの生活。
本人にとってもストレスだったことでしょう。
お酒も控えてはいたようですが飲んでいたようです。
タバコも辞めるような人ではありません。
仕事も頑張ってよくやってくれました。
9月6日もその日の作業を済ませたあとタバコを一服。
二人で明日の段取りを打ち合わせたあと
「帰るわな。」
「ほな、明日も頼むわな。おやすみ。」
これが親父と最後に交わした会話です。
夜の10時頃だったと思います。
「重久っ!おとうさんがおかしい、すぐ来て!」
母からの電話です。
慌てて走りました。
実家は3軒となりです。
「どうした!?」
目はぼくを追いかけてくれますが声がでない父。
「救急車は?」
「お前に電話するまでに呼んである!」
とても長い時間がたったように思います。
救急車がきました。
父は集中治療室に運ばれました。
先生と話しました。
「くも膜下出血です。すぐに手術になります。」
下着や身の回りのものを取りに行くように支持されました。
先生の部屋から出ようとする時、手術室に入る父とスレ違いました。
「すぐ帰ってくるわな。」
そう声をかけるとうなづいてくれたように思います。
大急ぎで家に帰り、病院に戻りました。
行き帰りにいろんなことが頭を駆け巡りました。
実は、安心していました。
倒れてから病院に運ばれるまでとても早かったこと。
母も同じ病気で倒れたことがあるのですが見事に復帰していること。
あの父が死ぬはずがない。
病院に戻ると、先ほどとは明らかに顔色が違う主治医の先生。
「どうしました?」
「2回目の破裂が起きたようです。」
「どういうことでしょう?」
「もう一度、出血が起きてしまったようです。今頭の中は血液でパンパンです。
今、開けると圧が急に下がってしまい、かえって危険です。
手術するには圧がもう少し下がらないと・・。」
あとから聞くと、もう手遅れだったらしいのです。
手術してもムダだったようです。
一週間なにも言わず、一言も告げずに父は逝ってしまいました。
せめて、一言ぐらい・・。
最後に一言「お母ちゃんを頼むでよ。」ぐらいは頼んでから逝って欲しかった。
人の生き死はタイミングもあるのだとつくづく思いました。
もう少しばあちゃんが早く天国に行ってたら父は手術できたかもしれない。
もう少しばあちゃんが長生きしてても・・。
人生はタイミング。
今しか変えられない。
2006年9月13日。
父は死にました。
後にある人からこんなことを聞きました。
父親はいろんな意味で自分にとって最高のタイミングで死ぬものだ。
そうかもしれない・・。
そう思えてしかたがないのです。
2006年9月。
くも膜下出血です。
倒れて、1週間目の朝、逝ってしまいました。
救えた命です。
脳の中の血管に瘤は見つかっていたんです。
そして、この瘤の除去手術をあの世界的名医 福島孝徳先生に執刀してもらうことも決まっていたのです。
なのになぜ?
その年は、88歳のおばあちゃんが先に具合が悪くなって入院したんです。
そして、父と母は決めたそうです。
ばあさんが元気になって退院してきたら手術を受けよう・・。
いい先生に手術してもらえるそうだから・・。って。
6月に入り、おばあちゃんの様態が急変します。
主治医から「家族に集まってもらって下さい。」
えーーっ!
みんなに看取られながら大往生で逝ってしまいました。
元気になって帰ってきたら、のはずが・・。
帰ってきてはくれたのですが・・。
それから、お葬式、法事と続きます。
田舎なので丁寧です。
初七日、ふた7・・49日法要。
父の手術はどうするの?
家族で話し合って、
100ケ日法要が済んでおばあちゃんがお墓に入ったら・・。
って事になりました。
予定通りであれば、9月の末です。
でも、
間に合わなかったのです。
瘤が、血管の中でそれより先に弾けてしまったのです。
時限爆弾を脳の中に埋めたままの生活。
本人にとってもストレスだったことでしょう。
お酒も控えてはいたようですが飲んでいたようです。
タバコも辞めるような人ではありません。
仕事も頑張ってよくやってくれました。
9月6日もその日の作業を済ませたあとタバコを一服。
二人で明日の段取りを打ち合わせたあと
「帰るわな。」
「ほな、明日も頼むわな。おやすみ。」
これが親父と最後に交わした会話です。
夜の10時頃だったと思います。
「重久っ!おとうさんがおかしい、すぐ来て!」
母からの電話です。
慌てて走りました。
実家は3軒となりです。
「どうした!?」
目はぼくを追いかけてくれますが声がでない父。
「救急車は?」
「お前に電話するまでに呼んである!」
とても長い時間がたったように思います。
救急車がきました。
父は集中治療室に運ばれました。
先生と話しました。
「くも膜下出血です。すぐに手術になります。」
下着や身の回りのものを取りに行くように支持されました。
先生の部屋から出ようとする時、手術室に入る父とスレ違いました。
「すぐ帰ってくるわな。」
そう声をかけるとうなづいてくれたように思います。
大急ぎで家に帰り、病院に戻りました。
行き帰りにいろんなことが頭を駆け巡りました。
実は、安心していました。
倒れてから病院に運ばれるまでとても早かったこと。
母も同じ病気で倒れたことがあるのですが見事に復帰していること。
あの父が死ぬはずがない。
病院に戻ると、先ほどとは明らかに顔色が違う主治医の先生。
「どうしました?」
「2回目の破裂が起きたようです。」
「どういうことでしょう?」
「もう一度、出血が起きてしまったようです。今頭の中は血液でパンパンです。
今、開けると圧が急に下がってしまい、かえって危険です。
手術するには圧がもう少し下がらないと・・。」
あとから聞くと、もう手遅れだったらしいのです。
手術してもムダだったようです。
一週間なにも言わず、一言も告げずに父は逝ってしまいました。
せめて、一言ぐらい・・。
最後に一言「お母ちゃんを頼むでよ。」ぐらいは頼んでから逝って欲しかった。
人の生き死はタイミングもあるのだとつくづく思いました。
もう少しばあちゃんが早く天国に行ってたら父は手術できたかもしれない。
もう少しばあちゃんが長生きしてても・・。
人生はタイミング。
今しか変えられない。
2006年9月13日。
父は死にました。
後にある人からこんなことを聞きました。
父親はいろんな意味で自分にとって最高のタイミングで死ぬものだ。
そうかもしれない・・。
そう思えてしかたがないのです。
なんで、忙しいのに儲からないの?
滋賀県湖東地区に愛知川町(現在は愛荘町)という町があります。
かつては、布団カバーの町として全国的にも有名な町でした。
僕の会社もこの町にある会社から仕事を受注していました。
仕事が急に減り始めたのは1990年代に入ってからです。
だましだまし繋いできましたが、
もう、にっちもさっちも行かなくなってきたのが1990年代後半。
重い腰を上げ営業に出ることにしました。
すぐに、ある大阪の会社B社からオファーがありました。
当時、布団カバーの生産は安い労働力を求め中国生産にシフトされて行きました。
愛知川の布団メーカーもどんどん中国に進出して行きました。
B社の代表は切れ者でした。
布団カバーやインテリア雑貨を千◯会や日本◯協などの通販カタログ向けに供給する仕事で大成功されていました。
1998年秋、取引を始めました。
流れは中国生産。
だから、うちは敢えて国内生産で行く。
日本製にこだわったものづくり。
これは受けました。
他社は中国製。
こっちは日本製。
しかも、中国製並に安い。
よく売れたみたいです。
仕事が埋まり、材料をの納入するためのトラック。
出来上がった製品を発送するための集荷のトラック。
朝早くから夜遅くまで働きました。
妻もミシンだけではなく梱包の仕事も手伝ってくれました。
ものづくりに関わるすべての作業を手伝ってくれました。
周りからは、「忙しそうやね。儲かってるんやろ~。」
すごいらしいやんか!
今にビルが立つなあ。
とか言われてけっこう有頂天になった時もありました。
これだけ仕事が入ってるんだからきっと良くなるに違いない。
そう思っていました。
ところが、当時経理をしていてくれた母親の顔がいっこうに晴れません。
どうしたん!?
お金がまわらん・・。
なんでやねん!?
こんな会話を何度したことか。
楽になるどころか益々負債が増えていく。
なんで?
家族4人死に物狂いに働いて働いて・・。
なんで楽にならんの?
努力が足らないから。
そう思い、今度は各仕入先様に交渉しました。
材料、ダンボール、、袋、運賃・・。
これでどや!?おふくろ。
晴れません。
よし、外国から安い労働力を入れよう。
外国人研修生制度を使って中国人の陳(チン)さんと趙(チョウ)さんが中国から来てくれました。
もうこれで安泰やな、な、おふくろ。
どうなってるんやろな。
おかちゃんはもう、どうしていいかわからんわ・・。
こんな感じでもB社と取引を続けました。
怖かったんです。
仕事がなくなる恐怖のほうが強かったんです。
そんな中、2006年9月突然父が他界してしまいます。
かつては、布団カバーの町として全国的にも有名な町でした。
僕の会社もこの町にある会社から仕事を受注していました。
仕事が急に減り始めたのは1990年代に入ってからです。
だましだまし繋いできましたが、
もう、にっちもさっちも行かなくなってきたのが1990年代後半。
重い腰を上げ営業に出ることにしました。
すぐに、ある大阪の会社B社からオファーがありました。
当時、布団カバーの生産は安い労働力を求め中国生産にシフトされて行きました。
愛知川の布団メーカーもどんどん中国に進出して行きました。
B社の代表は切れ者でした。
布団カバーやインテリア雑貨を千◯会や日本◯協などの通販カタログ向けに供給する仕事で大成功されていました。
1998年秋、取引を始めました。
流れは中国生産。
だから、うちは敢えて国内生産で行く。
日本製にこだわったものづくり。
これは受けました。
他社は中国製。
こっちは日本製。
しかも、中国製並に安い。
よく売れたみたいです。
仕事が埋まり、材料をの納入するためのトラック。
出来上がった製品を発送するための集荷のトラック。
朝早くから夜遅くまで働きました。
妻もミシンだけではなく梱包の仕事も手伝ってくれました。
ものづくりに関わるすべての作業を手伝ってくれました。
周りからは、「忙しそうやね。儲かってるんやろ~。」
すごいらしいやんか!
今にビルが立つなあ。
とか言われてけっこう有頂天になった時もありました。
これだけ仕事が入ってるんだからきっと良くなるに違いない。
そう思っていました。
ところが、当時経理をしていてくれた母親の顔がいっこうに晴れません。
どうしたん!?
お金がまわらん・・。
なんでやねん!?
こんな会話を何度したことか。
楽になるどころか益々負債が増えていく。
なんで?
家族4人死に物狂いに働いて働いて・・。
なんで楽にならんの?
努力が足らないから。
そう思い、今度は各仕入先様に交渉しました。
材料、ダンボール、、袋、運賃・・。
これでどや!?おふくろ。
晴れません。
よし、外国から安い労働力を入れよう。
外国人研修生制度を使って中国人の陳(チン)さんと趙(チョウ)さんが中国から来てくれました。
もうこれで安泰やな、な、おふくろ。
どうなってるんやろな。
おかちゃんはもう、どうしていいかわからんわ・・。
こんな感じでもB社と取引を続けました。
怖かったんです。
仕事がなくなる恐怖のほうが強かったんです。
そんな中、2006年9月突然父が他界してしまいます。
生きてきた世界。
結婚してから、しばらく妻は元気がなくなりました。
お布団カバーの縫製という仕事が、というより、
ものづくりの現場が妻の予想をはるかに越えるものだったからだと思います。
患者さんの歯や歯ぐきのケアと、その方法の指導が彼女の仕事でした。
1時間彼女が働くとその医院には数万円単位のお金が治療費として入ってきます。
技術はもちろん必要ですがお客(患者)さんは価値にお金を支払う世界です。
一方、僕の会社は・・。
1枚縫って幾らの完全出来高制です。
加工賃を決めるときは5円、10円の世界です。
万単位で受注するわけですから、5円、10円がものをいう訳です。
加工賃請負の仕事をしているものづくり企業はみーんなそうです。
それが当たり前の世界です。
ものづくりの世界ではあたり前の価値より価格の世界。
世界が違うふたりが運命的な赤い糸で・・。
そこからサクセスストーリーがはじまった。
ならよかったのですがそうは行かないのが現実というものです。
ここから二人は努力します。
同業者の中でいち早くPCによる納期管理をはじめました。
納期と在庫管理を徹底的にやりました。
乱雑だった工場の整理整頓。
きれい好きの妻の提案です。
見違えるように綺麗になっていきました。
でもあいかわらず仕事の量は増えない・・。利益も出ない。
食うのがやっと・・。
結婚して1年、2年、3年・・。
よくなる気配なし
待ちの仕事しかしてこなかったことに気づきました。
つい数年前まで、それだけ仕事が溢れかえっていたのです。
「待ち」に慣れきってしまってこっちから仕掛けるという発想は当時なかったんです。
30になるまで定職につかなかったわけですから、コネもあるわけ無い。
あるといえば3年間の人脈だけです。
でも会社を大きくしないと・・。
決心をしました。
自分が営業に出よう!
自社の技術力とスタッフをもっと売り込もう!
そこで思いついたのが
生地だけ預けてくれたら他は何でも手配します。
裁断から縫製、梱包、発送まで全て一手に引き受けます。
ある会社から引き合いが来ました。
カタログ通販大手にインテリア雑貨を卸している会社です。
ここからさらにキツイ毎日がはじまります。
お布団カバーの縫製という仕事が、というより、
ものづくりの現場が妻の予想をはるかに越えるものだったからだと思います。
患者さんの歯や歯ぐきのケアと、その方法の指導が彼女の仕事でした。
1時間彼女が働くとその医院には数万円単位のお金が治療費として入ってきます。
技術はもちろん必要ですがお客(患者)さんは価値にお金を支払う世界です。
一方、僕の会社は・・。
1枚縫って幾らの完全出来高制です。
加工賃を決めるときは5円、10円の世界です。
万単位で受注するわけですから、5円、10円がものをいう訳です。
加工賃請負の仕事をしているものづくり企業はみーんなそうです。
それが当たり前の世界です。
ものづくりの世界ではあたり前の価値より価格の世界。
世界が違うふたりが運命的な赤い糸で・・。
そこからサクセスストーリーがはじまった。
ならよかったのですがそうは行かないのが現実というものです。
ここから二人は努力します。
同業者の中でいち早くPCによる納期管理をはじめました。
納期と在庫管理を徹底的にやりました。
乱雑だった工場の整理整頓。
きれい好きの妻の提案です。
見違えるように綺麗になっていきました。
でもあいかわらず仕事の量は増えない・・。利益も出ない。
食うのがやっと・・。
結婚して1年、2年、3年・・。
よくなる気配なし
待ちの仕事しかしてこなかったことに気づきました。
つい数年前まで、それだけ仕事が溢れかえっていたのです。
「待ち」に慣れきってしまってこっちから仕掛けるという発想は当時なかったんです。
30になるまで定職につかなかったわけですから、コネもあるわけ無い。
あるといえば3年間の人脈だけです。
でも会社を大きくしないと・・。
決心をしました。
自分が営業に出よう!
自社の技術力とスタッフをもっと売り込もう!
そこで思いついたのが
生地だけ預けてくれたら他は何でも手配します。
裁断から縫製、梱包、発送まで全て一手に引き受けます。
ある会社から引き合いが来ました。
カタログ通販大手にインテリア雑貨を卸している会社です。
ここからさらにキツイ毎日がはじまります。