愛すべき妻、礼子と結婚。
1996年、有限会社村山縫製の後継者になることを決めました。
少しずつ仕事もわかってきて面白くなって行きました。
同級生の妻と一緒になったのは、そんな頃・・
僕の31歳の誕生日のコトです。
妻は歯科衛生士という仕事をしていました。
人の役に立つ立派な仕事です。
本人もよく、「わたしの天職」と言っていました。
先生からも信頼される優秀な歯科衛生士。
歯科医は個人病院がほとんどですから、
優秀なスタッフが1人いると売上が伸びるそうです。
妻は、僕が今も通う歯科医に5年ほど務めていたのですが、
ここの先生からいつもこう言われます。
「あの子が一番良かった」って・・。
ほかに務めたところでもすぐにリーダーに任命されていました。
そのたびに彼女は、「またー」ってぼやいていましたが、
「それだけ優秀ってことなんだよ。」ってなだめていたのを覚えています。
超~真面目人間の妻。
務めた歯科医を辞めた理由をお話ししましょう。
先生に辞意を伝えると、必ず慰留されるそうです。
そりゃーそうです。本人に問題があるわけではないのですから。
むしろ辞められると困るんです。
彼女に会いに来てくれる患者さんがいっぱいになるんです。
①ちょ~働き者の先生。
先生の技術はピカイチ。でも、欲張り。
9時~22時の勤務、休憩45分。少数精鋭主義。
体が限界。
②ちょ~技術がない先生。
5年も毎日、歯を見ていると治療がうまく行ってるかどうか分かるようになるそうです。
ムシ歯菌に侵された箇所が除去しないまま銀歯を詰めちゃおうとする先生。
「先生っ!今の患者さんのことですが・・」
・・・。「わかってるんだ、この先生。」と思った瞬間、辞表を書いていたそうです。
③ちょ~強欲な先生。
腕はいいんだけど、自費治療を薦めるよう強要する先生。
儲かるんです。いいものは。でも保険が効かない。
わたしは患者さんの歯を治療するのが仕事。先生の金儲けに付き合うつもりはない。
④ちょ~悪い先生。
これは、書いていいか迷いますが、保険制度を悪用する先生です。
ハッキリ行って僕は聞いて告発しようかと思ったくらいです。
勤めて2日目に、この不正のための書類を書くように言われたため、
その場で辞めて僕のところへ来たのを覚えています。
目を真っ赤にしながら、「悔しい」って。
僕が今でも通ってるのはもちろん①の先生のところです。
気さくでいい先生です。
今は労働なんたら法がきびしいので昔のようなことはないそうです。
とにかく仕事人だったのです。
自分の仕事に誇りを持っている一人の女性。
僕とは正反対です。
適当に入れる普通科の高校行って、
適当に入れた大学行って、
お金持ちになりたいから大学辞めて、
お金儲け失敗したから家業継いで・・、
そんな僕に妻はなんて言ってくれたか?
わたし、しげちゃんとずっと一緒にいたいから、仕事やめる。
大好きな仕事だけどやめる。
そして、ミシンを踏むわ。
書いてて泣けてきた
「一生の仕事」を見つけることが、
人生で一番重要で一番素敵なことなんです。
なのに・・、それを捨てるなんて。
僕のために・・。
これが、僕が愛妻家でいる原点です。
少しずつ仕事もわかってきて面白くなって行きました。
同級生の妻と一緒になったのは、そんな頃・・
僕の31歳の誕生日のコトです。
妻は歯科衛生士という仕事をしていました。
人の役に立つ立派な仕事です。
本人もよく、「わたしの天職」と言っていました。
先生からも信頼される優秀な歯科衛生士。
歯科医は個人病院がほとんどですから、
優秀なスタッフが1人いると売上が伸びるそうです。
妻は、僕が今も通う歯科医に5年ほど務めていたのですが、
ここの先生からいつもこう言われます。
「あの子が一番良かった」って・・。
ほかに務めたところでもすぐにリーダーに任命されていました。
そのたびに彼女は、「またー」ってぼやいていましたが、
「それだけ優秀ってことなんだよ。」ってなだめていたのを覚えています。
超~真面目人間の妻。
務めた歯科医を辞めた理由をお話ししましょう。
先生に辞意を伝えると、必ず慰留されるそうです。
そりゃーそうです。本人に問題があるわけではないのですから。
むしろ辞められると困るんです。
彼女に会いに来てくれる患者さんがいっぱいになるんです。
①ちょ~働き者の先生。
先生の技術はピカイチ。でも、欲張り。
9時~22時の勤務、休憩45分。少数精鋭主義。
体が限界。
②ちょ~技術がない先生。
5年も毎日、歯を見ていると治療がうまく行ってるかどうか分かるようになるそうです。
ムシ歯菌に侵された箇所が除去しないまま銀歯を詰めちゃおうとする先生。
「先生っ!今の患者さんのことですが・・」
・・・。「わかってるんだ、この先生。」と思った瞬間、辞表を書いていたそうです。
③ちょ~強欲な先生。
腕はいいんだけど、自費治療を薦めるよう強要する先生。
儲かるんです。いいものは。でも保険が効かない。
わたしは患者さんの歯を治療するのが仕事。先生の金儲けに付き合うつもりはない。
④ちょ~悪い先生。
これは、書いていいか迷いますが、保険制度を悪用する先生です。
ハッキリ行って僕は聞いて告発しようかと思ったくらいです。
勤めて2日目に、この不正のための書類を書くように言われたため、
その場で辞めて僕のところへ来たのを覚えています。
目を真っ赤にしながら、「悔しい」って。
僕が今でも通ってるのはもちろん①の先生のところです。
気さくでいい先生です。
今は労働なんたら法がきびしいので昔のようなことはないそうです。
とにかく仕事人だったのです。
自分の仕事に誇りを持っている一人の女性。
僕とは正反対です。
適当に入れる普通科の高校行って、
適当に入れた大学行って、
お金持ちになりたいから大学辞めて、
お金儲け失敗したから家業継いで・・、
そんな僕に妻はなんて言ってくれたか?
わたし、しげちゃんとずっと一緒にいたいから、仕事やめる。
大好きな仕事だけどやめる。
そして、ミシンを踏むわ。
書いてて泣けてきた
「一生の仕事」を見つけることが、
人生で一番重要で一番素敵なことなんです。
なのに・・、それを捨てるなんて。
僕のために・・。
これが、僕が愛妻家でいる原点です。
ものづくりは段取り八分。
バブル。
父も母も堅実でした。
株や不動産には投資しませんでした。
と、いうよりそこに回すだけのお金がなかったのだと思います。
でも少しは儲かっていたんだと思います。
仕事をもらっていた会社の社長からこう言われます。
「村山さん、会社にしたら何でも経費で落ちるから得だよ。」
そして、できたのが有限会社村山縫製。
1990年1月です。
その日から父は「縫製屋の大将」から「社長」になったわけです。
国産ですが高級車にも乗るようになりました。
会社にした翌年、バブルが弾けました。
経営はみるみる悪化したようです。
仕事がない。
加工賃を安くしないと仕事が取れない。
社員さんのため仕事を確保しなければ・・。
悪循環はこのあとも続きます。
こういう時期が続く中、息子が継げばなんとかなるかもしれない・・。
そう思ったかどうかは今となってはわかりませんが、
1996年、30歳の時、僕は正式に会社に入りました。
中途半端な人生にケリを付け、この世界でやっていこうと決意したのです。
最初にやったことは生地の裁断です。
毎日、3000メートルの生地を布団カバーのサイズに切りました。
工場内と外注先に仕事を分配します。
配達も僕の仕事でした。
僕は2年間、生産管理を任されました。
この時覚えたコトが、「段取り八分」という言葉です。
効率を一番に考えなさい。ということです。
ひとつの仕事をいかに速く効率よくこなすか。
この点だけを考える様になっていきました。
2012年、46歳の僕はこの時の僕に贈りたいアドバイスがあります。
そのやり方はだめだよ。
15年後まさか、30歳の僕は、ものづくりを辞めるとは夢にも思っていなかったのでした。
父も母も堅実でした。
株や不動産には投資しませんでした。
と、いうよりそこに回すだけのお金がなかったのだと思います。
でも少しは儲かっていたんだと思います。
仕事をもらっていた会社の社長からこう言われます。
「村山さん、会社にしたら何でも経費で落ちるから得だよ。」
そして、できたのが有限会社村山縫製。
1990年1月です。
その日から父は「縫製屋の大将」から「社長」になったわけです。
国産ですが高級車にも乗るようになりました。
会社にした翌年、バブルが弾けました。
経営はみるみる悪化したようです。
仕事がない。
加工賃を安くしないと仕事が取れない。
社員さんのため仕事を確保しなければ・・。
悪循環はこのあとも続きます。
こういう時期が続く中、息子が継げばなんとかなるかもしれない・・。
そう思ったかどうかは今となってはわかりませんが、
1996年、30歳の時、僕は正式に会社に入りました。
中途半端な人生にケリを付け、この世界でやっていこうと決意したのです。
最初にやったことは生地の裁断です。
毎日、3000メートルの生地を布団カバーのサイズに切りました。
工場内と外注先に仕事を分配します。
配達も僕の仕事でした。
僕は2年間、生産管理を任されました。
この時覚えたコトが、「段取り八分」という言葉です。
効率を一番に考えなさい。ということです。
ひとつの仕事をいかに速く効率よくこなすか。
この点だけを考える様になっていきました。
2012年、46歳の僕はこの時の僕に贈りたいアドバイスがあります。
そのやり方はだめだよ。
15年後まさか、30歳の僕は、ものづくりを辞めるとは夢にも思っていなかったのでした。
僕が生まれた場所
父親の会社、会社と言っても田舎町の小さな小さな縫製工場。
僕が住んでいる東近江市の隣町、愛知川町。
この町はお布団カバーのメーカーや問屋さんがたくさんありました。
30数年前・・。
右肩上がりの景気の中、作れば売れる時代。
今住んでいるところから峠をひとつ越すような山奥で僕たち家族は暮らしていました。
納屋を改装し、ミシンを置き、近所の女性を数名集めて父親は縫製所を作りました。
父親が生地を裁断し、母親もミシンを踏みました。
来る日も来る日も布団カバーを縫いました。
僕の記憶の中には、自宅にいる父と母はありません。
いつも工場で夜なべをしている父と母の姿・・。
けして裕福ではなかったですが楽しく幸せな毎日でした。
産業が育つ時代は「ものづくり」さえしていればよかったのです。
父と母は、両親のめんどうを見ながら、
そして、二人の子どもをちゃんと大人に育てたのですから・・。
僕がちゃんと育ったかは別として・・。
昭和47年9月16日僕の村を台風が襲います。
当時の若い村人たちは思います。
「ここで暮らしていいんだろうか?」
度重なる協議の結果集団移住をすることになります。
その動きの中心にいたのが僕の父親でした。
家族のため、地域のため頑張る人でした。
今こうして文字にするとあらためて親父には敵わないって思います。
昭和50年5月。
僕たちが暮らした家も村もなくなりました。
現在の土地に約60世帯が集団移住しました。
そして、今、僕はこの町で暮らしています。
小さい時、僕たちが暮らした場所には大きなケヤキがあります。
おばあちゃんが植えたケヤキです。
寂しくなった時やつらい時、ここに行きます。
去年の五月に家族でいったときの写真です。

ここが僕が生まれた場所。
ここが僕が育った場所。
大事に大事にしたい場所。
僕が住んでいる東近江市の隣町、愛知川町。
この町はお布団カバーのメーカーや問屋さんがたくさんありました。
30数年前・・。
右肩上がりの景気の中、作れば売れる時代。
今住んでいるところから峠をひとつ越すような山奥で僕たち家族は暮らしていました。
納屋を改装し、ミシンを置き、近所の女性を数名集めて父親は縫製所を作りました。
父親が生地を裁断し、母親もミシンを踏みました。
来る日も来る日も布団カバーを縫いました。
僕の記憶の中には、自宅にいる父と母はありません。
いつも工場で夜なべをしている父と母の姿・・。
けして裕福ではなかったですが楽しく幸せな毎日でした。
産業が育つ時代は「ものづくり」さえしていればよかったのです。
父と母は、両親のめんどうを見ながら、
そして、二人の子どもをちゃんと大人に育てたのですから・・。
僕がちゃんと育ったかは別として・・。
昭和47年9月16日僕の村を台風が襲います。
当時の若い村人たちは思います。
「ここで暮らしていいんだろうか?」
度重なる協議の結果集団移住をすることになります。
その動きの中心にいたのが僕の父親でした。
家族のため、地域のため頑張る人でした。
今こうして文字にするとあらためて親父には敵わないって思います。
昭和50年5月。
僕たちが暮らした家も村もなくなりました。
現在の土地に約60世帯が集団移住しました。
そして、今、僕はこの町で暮らしています。
小さい時、僕たちが暮らした場所には大きなケヤキがあります。
おばあちゃんが植えたケヤキです。
寂しくなった時やつらい時、ここに行きます。
去年の五月に家族でいったときの写真です。
ここが僕が生まれた場所。
ここが僕が育った場所。
大事に大事にしたい場所。
プロフィール
16年間、一生懸命ただひたすらにものづくりをしてきました。
16年間続けたものづくりを昨年の9月やめることにしました。
なぜ?
それを書く前にまず自己紹介をさせて下さい。
1965年4月6日生まれの46歳です。
生まれも育ちも滋賀県東近江市、根っからの田舎もんです。
地元の高校を卒業し大阪の大学に入学したものの
あるネットワークビジネスにのめり込み中退。
お金持ちになりたいから・・。
ただそれだけの理由でうまく行くわけがない。
一時はいいとこまで行ったけど、
若くして楽して稼ぐと・・。
ろくなもんじゃねえ~
ちょっとそれますが、長渕剛の大ファンなのであります。
機会があればどれくらいファンかは書かせてもらいます。
で、その後も勤めるわけでもなく風太郎。
何処かに勤められるタマでもないし・・
そこで思いついたのが父親の会社を継ぐこと。
父親は「ものづくり」をする会社の経営者。
有限会社村山縫製。
父親の会社の社名です。
この会社に入って自分を試してみようと思ったのです。
16年前、僕は有限会社村山縫製の社員になりました。
こうして、僕のものづくり人生が始まったのでした。
16年間続けたものづくりを昨年の9月やめることにしました。
なぜ?
それを書く前にまず自己紹介をさせて下さい。
1965年4月6日生まれの46歳です。
生まれも育ちも滋賀県東近江市、根っからの田舎もんです。
地元の高校を卒業し大阪の大学に入学したものの
あるネットワークビジネスにのめり込み中退。
お金持ちになりたいから・・。
ただそれだけの理由でうまく行くわけがない。
一時はいいとこまで行ったけど、
若くして楽して稼ぐと・・。
ろくなもんじゃねえ~
ちょっとそれますが、長渕剛の大ファンなのであります。
機会があればどれくらいファンかは書かせてもらいます。
で、その後も勤めるわけでもなく風太郎。
何処かに勤められるタマでもないし・・
そこで思いついたのが父親の会社を継ぐこと。
父親は「ものづくり」をする会社の経営者。
有限会社村山縫製。
父親の会社の社名です。
この会社に入って自分を試してみようと思ったのです。
16年前、僕は有限会社村山縫製の社員になりました。
こうして、僕のものづくり人生が始まったのでした。
タグ :ものづくり